ガイアの夜明けに密着され“てしまった”罪悪感
前回、ガイアの夜明けに密着頂いた経緯的なことを書いたが、その追記的な話。
ガイアの夜明けで放送されることが正式に決まった時、最初の心情は「決まってしまった」だった。
PRに関わる人間として、自分の関わる仕事が、ガイアの夜明けに密着されることは、とても名誉なことだ。
もちろん自分も「嬉しい!」という感情は湧き上がってきたが、それにも増して、「決まってしまった」という感情が占めていた。
そして、そういう感情が占めるようになったのは、ガイアの夜明けに限った話ではない。
ガイアの夜明けに密着頂ける、きっかけのきっかけになった、withnewsの奥山さんに取材頂いた時から続いていたことだ。
これを機に、目指している世界観が社内外に可視化され、取材が連鎖していった感はある。
今だから明かすが、取材頂いた当時は、タイトルの「サードウェーブ」とは、はったりでしかなかったと思う。正直、当時はウェーブ(=時流)でもなんでもなかった。
おそらく取材をする奥山さんも、はったりだということは理解していただろう。
それが証拠に「葬儀にもサードウェーブ?」と、しっかり【?】を入れている。
当時、はったりをかましていたのは、メディアだけではない。
取材対象で、身内の馬場にすら、はったりをかましていた。
事前に取材内容をまったく別の内容で伝え、取材後には「まぁ途中でテーマが変わることは、よくある話なので・・・」 とすっとぼけていた。
そうでもしなければ、マジメで誠実な彼は「まだそんな潮流ではないので」と、言い出しそうだったので。
正直、はったり続けるのはしんどい。
『MEDIA MAKERS』(宣伝会議)の中で、メディアが持つ影響力を、田端氏は「予言の実現能力」と表現しているが、メディアにはったりをかますという行為は、その予言の実現能力を逆手に利用する行為だ。
予言を自己実現する力ー「スクープ」と「誤報」の曖昧な境界線」
メディアには、そこでなされた予言自体を自己実現させてしまう傾向があり、この「予言の自己実現能力」こそが、メディアへの畏怖の念と、影響力の源泉でもありました。
メディアが報じた時点では「観測・解釈・予測」にすぎなかったことが、実際の社会においては「倒産」や「経営破綻」が実現することにより、「現実」となります。
MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体 宣伝会議
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もちろんサードウェーブの兆候のエビデンスは必死に集めたが、もし「葬儀にもサードウェーブ」と表現頂きながら、その後サードウェーブになり得なかったら、その逆手に利用した影響力に対して、どう償えばいいのだろうか。
その答えは未だに分からない。
そういう意味で、記事を掲載頂いたときは「掲載されてしまった・・・」という思いの連続だった。
しかし、ふっきれるわけではないが、立ち上げ当初orリブランディング過程の事業は、自分達の中にある「妄想」を「事後的に」正しくする、傲慢で横暴な、はったり上等な行為だ。
そして、そのPRとは「掲載されてしまった」という十字架を、背負い続けることが宿命づけられた役職なのかもしれない。
そういう過程を経て、ガイアの夜明けに密着頂いた。
withnews取材当時、その影響力を逆手に利用してしまったことの贖罪を終えたことになるのだろうか。正直なところ分からない。
ただ1つ分かっているのは、ガイアの夜明けに放送されて「しまった」ということだ。
結局のところ、この繰り返しに耐え続けなければいけないのかもしれない。
「社会不適合は才能だ」と言い続けていたら、ガイアの夜明けに密着された話
先日、立ち上げ時から関わっていた 鎌倉自宅葬儀社が、ガイアの夜明けで報道された。
ありがたいことに、「どうやって、密着にこぎつけたんですか?」と質問も頂くのだが、こう応えるようにしている。
「(鎌倉自宅葬儀社を立ち上げた)馬場は、もしかしたら社会不適合者かもしれませんが、僕はそれを才能だと言い続けただけです」
どういうことか?の説明のために、自宅葬儀社のコンセプトや葬儀業界の流れを、少しだけ解説させて頂きたい。
自宅葬儀社のコンセプトは「“偲ぶ”に原点回帰した、古くて新しいお葬式」で、背景にあるのは、葬儀業界の「省略化」の流れだ。
近年、葬儀を経ず、火葬のみを行う「直葬」が増加しており、2014年の鎌倉新書の調査では、関東圏における直葬の割合は20%を超えている。
直葬に象徴されるように、葬儀は首都圏を中心に、「省略化」の流れが進んでいるが、端的に言えば「いつのまにかお骨になっている」のが、近年の傾向だ。
また、一般的な会館葬でも、弔問客の“おもてなし”をしていたら、「いつのまにかお骨になっている」こともあるだろう。
「いつのまにかお骨になっている」ことに対して、「大人力」の高い方は「そもそも葬儀はそういうものだ」と思うか、自分にそう言い聞かせて、自分を納得させることができるのかもしれない。
その点、馬場は決して「大人力」が高いほうではない。
エピソードは割愛するが、「そういうものだ」と自分に言い聞かせる、という概念がない人物ではないかと思うことがある。
そういう意味では「社会不適合」なのかもしれない。
でも、だからこそ「いつのまにかお骨になっている」ことに潜む、「偲び足りない」という問題を「発明」(詳細は後述するが、「発見」ではない)し、偲びきる(泣ききる)「原点回帰」の葬儀を目指した。
余談だが、ガイアの夜明けが密着した際もそうだったが、馬場は葬儀業界歴14年にもかかわらず、葬儀のプランニング中に泣いてしまうことがある。
業界歴は長いにもかかわらず、ある意味で慣れていない。でも、慣れなかったからこそ、問題を発明できたのだろう。
余談が長くなってしまったが、これは、紛れもなく才能だ。
発明した問題を言語化さえすれば、それは「時流」になるからだ。
実際、メディアには「サードウェーブ葬儀」や「新しい弔い方」のように、葬儀の新たな時流をテーマに取材頂いた。
冒頭で、
「僕はそれを才能だと言い続けただけです」
と書いたが、具体的には、彼の発明した「偲び足りない」という問題を、言語化しただけだ。
もちろん、言語化するには、ブログのタイトルにもなっている「企画=(柳原可奈子+池上彰)÷2」のような、テクニック論もあるが(少しだけ宣伝をさせて頂くと、「サードウェーブ葬儀」と言語化すると、一定の確率で「第一の波は?第二の波は?」と質問して頂ける。こういった、いい質問を引き出すのが「池上彰力」だ)、そんなテクニック以上に、彼と接するようになってから、肝に銘じていることがある。
それは問題は「発見」するものではなく、「発明」するものという意識だ。
葬儀という同じ事象に対して、ある人は「そういうものだ」と思い、馬場は「偲び足りない」という感情が沸いた。
つまり、「いつのまにかお骨になっている」という事象は「発見」の対象ではあるが、それを問題と思う意識は「発明」だ。
しかし、問題を発見の対象と捉えていると、自分の「外側」に意識が集中し、自分の価値観をどのように設定するかという、自分の「内側」に意識が及ばなくなる。
なので、馬場の発言に違和感を覚えたときは、才能の片鱗が顔をだした。と思うようにしている。(ときどき、本当に意味が分からない時もあるけど笑)
ここまで、半ば馬場をdisりながら書き連ねてきたが、彼にこの場を借りて、お礼を伝えたい。
自分自身が社会不適合者で、学生時代は教室という社会に適合できず、社会人になってからも組織という社会に適合できず、いじめや鬱も経験した。
ただ、彼に出会ったことで、だからこそ、社会不適合を才能に変えることが「天職」だと気付かせてもらった。社会不適合者だった自分の過去に意味を与えてくれたのが、彼だった。
先日32歳になった。32歳にして、まったく大人になれる予感がしない。
「職業はマツコデラックスです。」と言うようになったのも、彼の影響だ。
彼にはこれからも人生計画を狂わされそうである。いい迷惑だ。
王将の餃子と同じペースで皮肉を生産してきたが、5年3ヶ月ぶりに人のことを褒めてみる
王将の餃子生産ペースと同じペースで皮肉を生産してきた自分と30年付き合ってきた。皮肉が1個30円で売れる時代がきたら、起業→上場→豊洲のタワマンの最上階を現金一括払いで購入できるのだろうが、そんな時代は3543年まで到来しないと某エコノミストが言っていたので、自分でも28分に1度は嫌気がさしてる。
それも無理はない。オンシーズンでも閑散とし、業績難に苦しむスキー場。大事な収入源であるリフト券の一部を無料開放すると聞けば、驚くのが普通だろう。「ますますデフレが進む」「ありえない」と憤慨され、説教されることもザラ。「昨日、○○社長から『加藤さんが来ても、絶対に話を聞くな』と言われたよ」と、うわさが広がっていたこともあったという。